水上バス浅草行き(岡本真帆)

先日、東京の日の出桟橋から浅草行きの水上バス「ホタルナ」に乗った。ホタルナは、宇宙船をイメージして作られた船で、流線形の車体で窓が天井まで続き、外との一体感があり楽しい。区間によっては船上に出ることもできる。
隅田川を遡上し、築地大橋、中央大橋厩橋とどんどん橋をくぐって進んでいく。そしてアサヒビールのう〇こではなく雲のオブジェが見えてきたら終点。浅草に着く。浅草は観光客でごった返しており、一気に日常に引き戻される。

水上バス浅草行き(岡本真帆)

さて、「水上バス浅草行き」という歌集がある。岡本真帆の第一歌集だ。あたたかい眼差しで世界を眺め続けているような、そんな雰囲気のある作品たちで満ち満ちている。

穏やかな気持ちになる歌

逆光の人たちみんな穏やかにほおの産毛を光らせて、秋

最初に読んだとき、特に目を惹かれたのがこの歌だった。

産毛が光ってるのも見えるくらいの解像度で世界の様子を眺めている描写がすさまじい。シチュエーションとしては、逆光方面にみんなが並んでいるような状態なので、電車での出来事なのかなと。向かいに座っているのは、友だちなのか、それともただ乗り合わせている人なのかはわからないけれど、「人たち」と一定距離を置いていることから、おそらくは乗り合わせている人かなと思う。そして「、秋」によって、物語の現在性を示しつつ、無限に広がる楽しそうな未来への確信が表されているように感じる。列車はどこへでも進んでいける。

読み手も穏やかな気持ちになりそうな、そんな歌だ。と、読みました。

日常を愛おしむ歌

平日の明るいうちからビール飲む、ご覧よビールこれが夏だよ

犬だけがただうれしそう脱走の果てに疲れた家族を前に

無駄こそがすべてと思う消えていく雲に名前をつける夕暮れ

この三首。どれも、日常が愛おしくなるような歌で、とてもよい。平日の明るいうちから飲むビール、脱走した犬を探し位回って疲労困憊の家族、何するでもなく空を見上げてきていく雲に名前をつけていくこと。どれも誰もが容易に想像できる、もしかしたら似たようなことがあったかもしれないというような場面。飾らない言葉で描かれる人生の一コマたちだ。

一首目の解放感と全能感は誰もが一度は経験したことがある気がする。二首目は、疲れた家族たちの安堵感みたいなものがなんとなく感じられる歌になっている。三首目は、まったく同じことはしたことがなくても、同じように意味の無いことをした経験ならきっと誰もが持つ。そんな三首。

うまい歌

ほんとうにあたしでいいの?ずぼらだし、傘もこんなにたくさんあるし

宇宙から見たら同じだ真夜中の映画も冬の終わりのたき火も

レントゲンには写らないものだけど君のたましいそのものだった

星座にも干支にもならずに土曜日のわたしの膝におさまった猫

発想として「うまい」と思った短歌のうちの四首を。

一首目はこの歌集の代表歌にもなっていると思う。よくいろんなところで見かける。「ずぼら」を表すのに「傘もこんなにたくさんある」という表現を使っているところがめちゃくちゃうまい。めちゃくちゃ「ずぼら」を表している。うまい。二首目、宇宙から見たら地球で起こっているいかなることも同等に無意味だ。だから少し寂しい感じもする歌になっている。「冬の終わりのたき火」が寂しさを表現しているのかなと思う。うまい。三首目はストレートにうまい。四首目は「確かに」となる。そして、猫さまが可愛すぎる。平日は忙しいのかな。土曜日に人も猫もやっとで安堵しているようで、とてもよい。うまい。

喪失感を感じる歌

ここにいるあたたかい犬 もういない犬 いないけどいつづける犬

もう君が来なくったってクリニカは減ってくひとりぶんの速度で

天井の木目のねこの名前すら思い出せないくらいに大人

ほんとうの記憶.zipをひらくとき さようなら夏休みのともだち

ときどき挟まれる「喪失感」を感じる歌が歌集に深みを与えているように思う。

一首目は犬に限らずコンパニオンアニマルと一緒に過ごしたことがある人なら誰でもつかめる気がする。今いるあたたかい犬の他にもういなくなった犬が、でも心に常にいつづける犬がいる。喪失感を感じさせながらも、記憶の永劫性を表している。でもやっぱり少し寂しい。二首目はストレートな寂しさ。誰かがいようがいなくなろうが、時間は進み、生活は続いていく。慣性のような日常。だからこそ不在がとても寂しい。三首目は、大人あるある。ベッドに寝そべりずっと見ていた天井。木目がねこに見えて名前もつけていたのに、大人になった今、それが思い出せない。とても寂しい。四首目は、どういう歌なのかよくわからない。ほんとうの記憶.zipがあるということは、ほんとうじゃない記憶というファイルもあるということだ。「さようなら夏休みのともだち」つまり、夏休みのともだちという偽の記憶があるのだろうか。寂しすぎるでしょ。

水上バス浅草行き」

水上の乗り物からは手を振っていい気がしちゃうのはなぜだろう

ほんとうは強くも弱くもない僕ら冬のデッキで飲むストロング

太陽を見たらくしゃみをする癖がきみのすべてのようで眩しい

水上バス浅草行き」という、歌集と同じタイトルの章がある。あとがきで筆者も言っているとおり、「水上バス」は浅草へ行くのに急いで乗るもではないし、むしろなくてもいいもの。でもゆっくりと川を遡上していく水上バスに乗ると、すべてが穏やかに思えて、飾らない自分たちが見えて、一つのすばらしい景色がすべてのように見える。

一首目は水上バスに乗ったことがあればなんとなく分かる。桟橋にいる職員に、川の外にいる人たちに、どうしてか手を降りたくなるし、それが許される気がする。ほんとなぜなんだろ。二首目は水上バスの本質と近いと思う。自分達が「強くも弱くもない」のが、水上バスで日常性から切り離された時間の中にいると浮き彫りになる。デッキに出てストロングを飲むという強がりもありつつ、等身大の姿が描かれているように思う。三首目はすごい。きみへの穏やかな愛情が、ひとつのくせをすべてのように感じる、一瞬のできごとを永遠のように感じてしまう。きみと過ごしてきた日常性と水上バスの持つ非日常性がなす奇跡。

とにかく本当に良作

水上バス浅草行き」は、とにかく「害がない」歌集。疲れてささくれだっている日常を送っている方にも、ほっと息をつける瞬間を与えてくれると思う。ぜひ読んでみてください。(道草レスカ)