文学フリマ36で買った本の感想とか #1 短歌同人誌ジングル(岡田奈紀佐)

 今年春の文学フリマで購入した本をようやく読み始めた。ごくごく私的な諸般の事情で紙に印刷された活字を読むことができなかったのだ(それどこかTwitterからも遠ざかりがちである)。
 そういう私的な事情は置いておいて、今回読む同人誌は貝澤駿一さん・志賀玲太さん・なべとびすこさん・橋爪志保さんの『短歌同人誌 ジングル』だ。赤と青と黄色の三色で構成された表紙がとてもかわいい(余談ですが、ジングルのブースでの購入特典のステッカー印刷の期限を切らしたのはわたしです)。四人の連作二十首・四人の個人企画・四人の連作十首(テーマ詠)で構成された冊子は、同人それぞれの魅力がたっぷりだった。今回は連作二十首の中から歌を引きつつ、それ以外にも触れていきたい。

 

木漏れ日はひかりの朗読だと思う決して雄弁ではないけれど 貝澤駿一「ライフ」

 国語の時間に教科書を朗読していたとき、堂々と読み上げる子もいれば、細い声でようやく読む子もいた。どの子もそこに確かに存在して、その子の声を発していた。木漏れ日はいつだってやわらかい。つまり、雄弁ではない。だけど、木漏れ日から注ぐひかりはひかりとしてそこにあるのだ。「だと思う」という推定に「けれど」と注釈をつけながら、それでもひかりの朗読であってほしいのだ。この歌は連作の中で置かれている位置も絶妙で、連作を読んでいてこの歌にたどり着いたとき、思わず深く息を吐いたほどだった。木漏れ日を見るたびに思い出したい歌。
貝澤さんの個人企画では岡野大嗣さんの短歌をある切り口から読んでいて、ここ最近の岡野さんの短歌の変節の一端を言語化して落とし込むことができた。現代を生きる人のための評論だった。

 

電話越しにいるはずの人 いないかも あまり誰かを責めないでいて 志賀玲太「White」

 電話中に訪れた沈黙。その向こうには人がいるはず、なのだけど、もしかしたらいないのかもしれない。しかしそれを電話のこちら側から確かめる術はないのだ。電話口の相手へ、おそらくは心の中で下の句の言葉を話しかける。この「誰か」は他者かもしれないのだけど、もしかしたら電話の相手自身のことなのかもしれないと思った。自分自身のことも「誰か」という言葉に仮託すれば、電話の向こうで沈黙しているであろう人にも伝わるだろうか。電話のこちら側からの祈りがやさしく響く。
 志賀さんの個人企画のインターネット吟行にはびっくりした。ストリートビュー吟行は知っているし、わたしはゲーム桃太郎電鉄で吟行したこともあるけど、まさかインターネットそのものとは!

おしぼりを泥に落としておしぼりを拾った手を拭くおしぼりがない なべとびすこ「翌る日」

 おしぼりって冷静に考えるとおもしろい言葉だ。連用形に接頭辞で構成されている。そのおしぼりが3回も出てきて、ちょっと情けないような場面が描写されている。ちょっと情けないんだけど、人生にはこういうシーンが起こりえるもんだよな、という説得力に溢れている。きっと、淡々とした書き方からまるで自分の身に起きたことのように読んでしまうのだろう。ハンカチでも起こりえる事象ではあるんだけど、でもこの歌は水分を含んでいるおしぼりだから面白いのだ。
 なべとさんのショートショートは起こりそうで起こらなさそうな日常の隙間を垣間見たような感じにぞくぞくした。もっとなべとさんのショートショートを読んでみたい。

自転車の荷物の場所を「チャリかご」とあなたは言って首都はチャリカゴ
 橋爪志保「恋の手先」

 自転車の鍵はチャリキー、自転車通勤・通学はチャリ通、自転車の荷物入れはチャリかご。普段なにげなく口にしているけど、冷静に考えるとなかなかに変な言葉だ。あなたの口から「チャリかご」という言葉が提示されたとき、それはまるで知らない言葉のように思われるのだ。知らない遠い国の、存在しない首都の名前のように。チャリかごという響きを首都に結びつける言語感覚が楽しい。そして、チャリカゴが首都になるには、あなたを慕う気持ちも必要なのだ。
 橋爪さんの日記は日付に匿名性が与えられていて、他人の日記を読むときの楽しさが増幅するようだった。わたしは特に12月の日記が好きだ。考えたことを残すこと、生きていることを思った。


ではでは、またお会いしましょう。岡田奈紀佐でした。