文フリ東京36でいただいたフリペの感想とか#4(mah)

文フリ2023 東京

文フリに行ってきたので、ぼちぼちフリーペーパーの感想をしたためている。今回は第四弾。文フリ会場ではいただいておらず、後からネットプリントで出力した、歌会ピオーネさんの「東京出張」フリーペーパーの感想を、妄想多めで書いていきたいと思う。

歌会ピオーネ「東京出張」フリーペーパー

七人の方の、7首から10首の連作。超勝手に読み込んでいきたいと思う。

相聞欠片 楔

チョコレートのくまがココアに溶けていく目線の先に降る春の雨

これどういうシチュエーションなんだろうと一瞬悩んだのだけれど、勝手にしっくりきたのは、喫茶店で無言で向かい合ってる恋人同士の二人だった。家ではくまなぞココアに溶かさないこと、目線の先に春の雨が見えている(窓の外がはっきり見えている)ことから、外だろうと思い、ココアを飲んでいるので喫茶店を連想した。

お互いピクリとも動かないほどピリピリしている重たい沈黙の中で、ココアに溶けていくチョコレートのくまは唯一動いている。その対比が、沈黙の重たさを淡々と示している。うお、全体におけるこの上の句すげぇな……。

で、この歌の結構肝だと思うのだけれど、この歌の主人公の目線って、くまにもないし、相手にもないし、相手を越して窓の更に外の雨にまで通り抜けてしまっている。沈黙の中、なんとなく白けていのだ。沈黙をすら冷めた目で見ている。

そう考えると、これって別れ話なのかなあと思う。少なくとも主人公はこの沈黙にうんざりしているし、もはや相手を見てすらいない、などといった描写から考えて。

「春」と限定しているから、まあいろんな出会いや新しい経験を通じて、昔の自分を、一緒にいた恋人を、脱ぎ捨てたいと思っているのかもしれない。

大切なのかもしれないのにね。すごい描写力の歌だと思った。

寿司 酒田現

春いろの服も茶髪も影となりそのふちだけがやや青くある

これ、懐かしい写真眺めてるんだろうなと思った。春いろの服も茶髪も影となり、というところから、逆光で撮られた写真なのかなと思う。きっと楽しいシーンだったのだろう。「影となり」という語からは、逆光で撮ったという意味の他に、写真を撮った日からの時間的な距離を少し感じる。なので、懐かしい写真なのかなと連想した。

さて、デジカメで撮った写真の、被写体の縁が青や薄い紫にうつる現象を、パープルフリンジと言うらしい。やはり逆光のときによく起こるということだ。なんでこの写真逆光で撮られたんだろう。と、考えたのだけれど簡単で、ハイチーズで撮った写真じゃないことの証左なのだとすぐに気づいた。ごく自然な何気ない楽しい写真なのだろう。思い出して思いを馳せることは、温かいことなはずなのに、とてつもなく寂しい。

 

震度2くらい スズキ皐月

準急じゃとまらない駅を忘れてく大学の友の下の名前も

これなんか共感しかなかった。通勤で使ってた赤い電車の各駅停車が停まる駅の名前を、わたしもとうに忘れてしまった。毎朝乗っていたのに。それで、快特が通る駅はなぜだか覚えていたりして。各停だけ忘れてしまうのはなぜなんだろう。

なんかこれ、ホント寂しい短歌だなと思う。線路の先にはその駅が確かにあるのに、大学の友だちにも下の名前は絶対にあるのに、思い出せない。知っていたんだから、あと少しで思い出せるはずなのに、もう絶対思い出せない。些細なことのようでいて。一度は受け入れ受け入れられ合えたはずの世界からの圧倒的孤絶。望んでいるのか、そうなってしまったのかは分からない。ちょっと昔の村上春樹の世界観と近いかもしれないと思った。うん。これよかった。

昼食を忘れる 武田ひか

口角からひかりあふれている人よ 真夏のこけらおとしはすぐそこ

これ面白かった。口角からひかりあふれるってどういうことなんだろうと思って。口角って普通ひかりじゃなくて泡を飛ばすのだけれど、その泡にすらひかりを見出しているのだろう。「ひかり」という表現から、ポジティヴな目線で相手を見ていることが分かる。きらきら眩しいんだろうな。

なんとなくなのだけれど、多分この二人は(二人かは分からないけれど)、主人公の方が年上なのだろう。というのは、「ひかりあふれている人よ」の「よ」で突き放す表現には、若干上からの距離を感じる気がするので。

主人公である先輩Aとひかりふれている後輩B。先輩Aは後輩Bが楽しそうに話すのを、少し距離をおいて、でも少し懐かしい気持ちを抱きながら眺めている。「懐かしい」、というのは、「真夏のこけらおとしはすぐそこ」という下の句から連想した。「すぐそこ」と分かっているということは、一度は通り過ぎた景色なのだろうなと。

そんなわけで、この歌は「そうだよね、そうそう、いろいろやりたいよね、いろいろ楽しみたいよね、そんな真夏はすぐにやってくるよ、かけがえのない時間をきっと過ごすことになるよ、楽しみだね」みたいな感じなのかと思った。まあ、妄想です。

個人的にはこの歌のこの眼差しの温かさはちょっと好きかもしれない。

藤の花のセオリー 大代祐一

藤の花のセオリーは垂れ下がることラクだとか好きだとかではなく

これホントそうだなぁと思っていて。

けど、人間に置き換えるとして、人間のセオリーってなんなのだろう。人間は生きるために何をしなければならないんだろう、何をすることが生きる条件なのだろう。群れを成して生きるとか、人を愛することとか。それとも、人間のセオリーそのものが「生きること」なのだろうか。そうだとすると、「人間は、生きれる通りに生きていくしかない、ラクだとか好きだとかではなく」とかなのだろうか。「人間ってのは、生まれちゃったら生きていくんだよ、ラクだとか好きだとかで選べるようなことじゃないんだよ、生きろ」というメッセージに見えて、なんかよかった(語彙力)。

これは、人生へのエールのような一首にも、人生での決定的な敗北にも見える。もう少し読み込みたい一首。

つわぶきの花 長谷川鱗

洞に住むきのこ人間 中学の模試に控えて勉強をする

これ山月記モチーフなのかな、というのが第一印象。

この方の作品を読むのは初めてなのだけれど、「きのこ人間」というのは自分を形容しているのか、誰か他人を形容しているのかどちらなんだろう。この連作中に「きのこ人間」が出てくる短歌は三首。さらに、連作の最後に「つづく」とあるので、ひょっとしたら前後関係があるのかなあ。

山月記モチーフだとすると、「きのこ人間」とはひょっとして、すでに世間から隔絶されているのだろうか。確かに他の二首も、若干世間から外れてる感はある。中学の模試ってなんだろ。定期テストとは別の何かなのだろうか。「模試」と言われると、大手の塾とかの全国テストみたいなのが想像できるけど、どうなんだろう。とにかく、模試に控えてめちゃくちゃ勉強している。「でももうあなたきのこ人間なのよ、模試なんて無いのよ?手遅れよ?」みたいな感じなのだろうか。

不思議な読後感の連作だった。ちゃんと意図を汲んで読めてなくてすみません。つづくそうなので、また読みたいです。

硬水の機運 村上航

食パンの焼かれる面にスプーンですくったバターを塗る人の朝

これはなんだろ、不思議な歌。バターをスプーンですくうのも、それを淡々と塗るのも、少しずつ現実と離れている。バターはナイフですくうものだし、まだ焼いていない食パンに塗るのも硬さ的に無理なのだ(マーガリンならできる)。なんか、少しずつ変な人を描いているってことなのかなあ。そういう少しずれた人の朝って、なにもかもが少しずつずれているんだろうな。

ああ、でもこれも描写の丁寧さと適切さとズレ感が、村上春樹っぽさがあるな。大量のサラダも一緒に食べていてほしい、朝。

 

では

わたくしからは以上です。(mah)