文フリ東京36でいただいたフリペの感想とか#2(mah)

文フリ東京36

文フリに行ってきたので、ぼちぼちフリーペーパーの感想をしたためている。今回は第二弾。

 

バッテラ46号 岡本真帆 谷じゃこ

a が the へと my へと変わりゆくように紙袋持つ帰路は夕暮れ(岡本真帆)

これはめちゃくちゃ好きになった、一瞬で。

a 不特定多数のあるもののうちの一つ
the 特定のもの
my わたしのもの

この変化は誰しもが、何らかのものやこと、あるいは人に対して、感じてきた心の動きだ。だから、この歌を読む誰もが、実体験としてこの心の変化を思い起こすことができる。

この歌においては、変わってゆくそのものは、一体何なんだろう。
その「何か」がa→the→myと変化してゆく小さな愛おしさ。紙袋を持つ帰路、夕暮れに思いを馳せながら、「その一日」の連続、「日常」そのものがa→hte→myに変わってゆくようなしんみりとした実感。そして「人生」という途方もなく、過去から未来へと連綿と続いていくが a→the→my へと変わってゆく温かい確信。そこにはたくさんの人への愛情もあるはずで。

周りの大切な人やもの、生きてゆくことへの柔らかな眼差しがすさまじい一首だと思った。

土曜日の朝のねむたいうすぐもり二度寝はせずにもう一度寝る(谷じゃこ)

これもめちゃくちゃ共感できる歌だった。

おそらく土曜日に休みの仕事をしているか、学校に在籍している。だから、その土曜日=休日の朝なのにいつもと同じ時間に目覚めてしまう。それは目覚ましを掛けていなくても、自動化されてる現象だ。しかし、目覚めてみれば窓の外にはうすぐもりのぱっとしない一日が広がり、自分の意識もうすぐもりのそらのようにぼんやりとしている。こんな日は「二度寝」なんて最初の眠りの調整のための生半可な眠りではなく、「もう一度寝る」と決意を表明するぐらい本気で寝る、寝たい、寝よう。なんなら昼ごはんも食べなくていい、寝よう。

こうした決意ある眠りは、経験がある人も沢山いるのではないだろうか。そしてそういう光景を歌にすることでこの歌は、大きな共感を生むものであるとともに、大袈裟に言えばある種の許しさえも含んでいる。

 

お披露目フリペ 短歌同人しえすた

果てる春 鈴木智

何十年ぶりに聞いたか鼻歌を はざくら、宣告は父に降る

なにこのすごい歌。と思ったら歌集を出してる人だった。

1ヶ月くらい掛けて病気の検査をきっとたくさん受けていた父さんが、ある種「宣告」の予感を感じている。それで気持ちを落ち着かせるためか、無意識で鼻歌を歌っていて、子どもである主人公は何十年かぶりにそれを聞いている。そしてたまらない気持ちになる。「宣告は父の降る」と「父」と限定しているので、もしかしたら、主人公は父より先に医師から宣告を受けているのかもしれない。それだからこそ、少しの間父さんに秘密を持っていた罪悪感と、気を紛らわすために父さんが歌う鼻歌が、悲しくて寂しい。

「はざくら」は、花がら花びらへと別れて散りだしてから若葉が芽吹き終えるまでの期間を指す限定的な言葉だ。葉桜が見えるのは、ほんの一瞬だけなのだ。

だからおそらくこの「はざくら」は、「桜の花=人生」がいろいろな人と分け合って落ちてしまったあとに残るほんの僅かな期間を指しているのだろう。

そしていよいよ、父に余命宣告がなされる。おそらく空から「降る」ように残酷なまでに一瞬で。そして短い「はざくら」の期間を言い渡される。

父さんはどんな気持ちになったろう。もう鼻歌はしばらく歌えないかもしれない。付き添っている主人公もおそらくしばらくは気楽に笑えないかもしれない。

でも生きていればそんな日もくる。人生は、いつも温かいばかりじゃない。神さまは、いつも優しいだけじゃない。

西へ 千々岩清

岡山に誰か待つらむ靴紐を結び直して改札口へ

直訳という「か」と「らむ」を現代語に直すと二つ意味がとれて、

「岡山に誰が待っているだろう 靴紐を結び直して改札口へ」
「岡山に誰が待っているというのだろう(反語、いや誰も待っていない) 靴ひもを結び直して改札口へ」

つまり、「か」という助詞が疑問か反語を示し、(助)動詞は「か(疑問)にせよ「か(反語)」にせよ連体形で結ばれるので、この推量の助動詞「らむ」は、文章からは区別できない。


これはわたしは「反語」を採用したい。

この連作では、主人公は新横浜からのぞみにのり、岡山までやってきた。ふるさとはシウマイになって着いてくるわ、仕事人は背もたれ倒すほど疲れてるわ、(大阪とか神戸?)家族連れを吐き出して、さらに西へと列車は進んでいく。これらの情景描写には、所在のなさを感じる。

で、この歌の「か」を疑問としてとらえるのならば、「待っている」人が知人であれ将来知り合う誰かであれ、ポジティブに「誰が待ってんだろうなー、色んな人と出会って行きたいなー」と決意を新たに靴紐を結び直して新幹線を降りて改札へ向かう。

この歌の「か」を反語として捉えると」、それが知人であれ将来知り合う誰かであれ、「誰が(わたしなんか)待ってくれるのかだろうか、いや、誰も待ってなんかいない」という所在ない、孤独、寂しさ、心細さなどが際立つことになる。大学入学なのか、就職のためなのか、分からないけれど、誰も知り合いのいない土地で、「きっと誰にも出会えない(ずっと一人に違いない)」、と感じさせる、いじけた感じがよい。でもこの場所で生きていくという決意をするために、靴紐を結び直して改札へ向かう。

 

これ、どちらを選ぶかを読者に委ねてるのか。って今気づいた。わたしバカだーーーー。

そして結構共感できる人が多いような一首だった。

期待しない  深山静

かわいいの基準に性差あることを前提としてみんなかわいい

そうなの!性差があるのは分かっていても、それでも思うのだけれど、みんなかわいいの!とこの歌に乗っかりたい。

 

(前提としてわたしは女性です。ですのでこういうのを投稿できます。これ男性だったらそうはいかないでしょ。その男女の扱いの非対称性が、本当はわたしは嫌いです。それでも尚かわいいものを愛でたいと思ってしまう)

 

まず女子高生。
あなたたちは存在が可愛いので、写真の画像なんかしなくていいです、むちむちなのが生命力を表していて最高なので、ダイエットなんかしなくていいです。勉強はしなさい。

 

次に大学1年生
男女ともに、あなたたちはいわば雛鳥として可愛いのでそれでいいの。背伸びしなくていいの。都会にはいつかちゃんと慣れるから、とりあえずユニクロでもいいの。クラスやゼミやサークルでイケてるグループに入れなくてもいいの。いつか語り合える友だちには会えるから、焦らなくていいの。勉強はしなさい。

そして大学2年生
自由な様が、それを信じている確信が、かわいいのかもしれないね。受験から解放され一年、就活はまだこれからなので、一番自由なモラトリアムの一年って言えるかもしれないね。でもサークルの人間関係や叶わない恋に振り回され、泣きつかれた人もいるかもしれないね。でもそうして人は大人になっていくのかもしれないね。跳躍の一年、傷ついたり傷つけたり喜んだり喜ばせたりして生きていくのかもしれないね。勉強はしなさい。

さらに大学3,4年生
就活なんかで社会への大きな壁を前に途方に暮れてるあなたたちはかわいいよ。就活、なかなかうまくいかないよね。第一志望、一次面接で落ちたよね。そんな中なんか知らんけど恋人に振られたの意味わかんないよね。さらによくわかんないことをよくわかんないままで卒論にまとめなきゃならないのもしんどいよね。勉強はしなさいとさんざ言ったでしょう。

 

その他の全人類
(わたしはyoutuberのおのだという太った30代のとくにハンサムでもないおじさんが、最近可愛くてたまりません)

みんなみんな、生きてるだけでかわいいし。どんな自分でもかわいいし。だからそのままでもいいし、好きな服を着ればいいし、好きな髪型にすればいいし、自由でいていいし。きっと願っていれば、好きなことができるし、好きな場所に行けるし、好きな人に出会えるんだよ。人生が少しだけ尊く見えるんだよ。

でも勉強だけはしなさい、大人になっても、おじいさんおばあさんになっても!

では

今回はここまで。

わたくしからは以上です。(mah)