文学フリマ36で買った本の感想とか #1 短歌同人誌ジングル(岡田奈紀佐)

 今年春の文学フリマで購入した本をようやく読み始めた。ごくごく私的な諸般の事情で紙に印刷された活字を読むことができなかったのだ(それどこかTwitterからも遠ざかりがちである)。
 そういう私的な事情は置いておいて、今回読む同人誌は貝澤駿一さん・志賀玲太さん・なべとびすこさん・橋爪志保さんの『短歌同人誌 ジングル』だ。赤と青と黄色の三色で構成された表紙がとてもかわいい(余談ですが、ジングルのブースでの購入特典のステッカー印刷の期限を切らしたのはわたしです)。四人の連作二十首・四人の個人企画・四人の連作十首(テーマ詠)で構成された冊子は、同人それぞれの魅力がたっぷりだった。今回は連作二十首の中から歌を引きつつ、それ以外にも触れていきたい。

 

木漏れ日はひかりの朗読だと思う決して雄弁ではないけれど 貝澤駿一「ライフ」

 国語の時間に教科書を朗読していたとき、堂々と読み上げる子もいれば、細い声でようやく読む子もいた。どの子もそこに確かに存在して、その子の声を発していた。木漏れ日はいつだってやわらかい。つまり、雄弁ではない。だけど、木漏れ日から注ぐひかりはひかりとしてそこにあるのだ。「だと思う」という推定に「けれど」と注釈をつけながら、それでもひかりの朗読であってほしいのだ。この歌は連作の中で置かれている位置も絶妙で、連作を読んでいてこの歌にたどり着いたとき、思わず深く息を吐いたほどだった。木漏れ日を見るたびに思い出したい歌。
貝澤さんの個人企画では岡野大嗣さんの短歌をある切り口から読んでいて、ここ最近の岡野さんの短歌の変節の一端を言語化して落とし込むことができた。現代を生きる人のための評論だった。

 

電話越しにいるはずの人 いないかも あまり誰かを責めないでいて 志賀玲太「White」

 電話中に訪れた沈黙。その向こうには人がいるはず、なのだけど、もしかしたらいないのかもしれない。しかしそれを電話のこちら側から確かめる術はないのだ。電話口の相手へ、おそらくは心の中で下の句の言葉を話しかける。この「誰か」は他者かもしれないのだけど、もしかしたら電話の相手自身のことなのかもしれないと思った。自分自身のことも「誰か」という言葉に仮託すれば、電話の向こうで沈黙しているであろう人にも伝わるだろうか。電話のこちら側からの祈りがやさしく響く。
 志賀さんの個人企画のインターネット吟行にはびっくりした。ストリートビュー吟行は知っているし、わたしはゲーム桃太郎電鉄で吟行したこともあるけど、まさかインターネットそのものとは!

おしぼりを泥に落としておしぼりを拾った手を拭くおしぼりがない なべとびすこ「翌る日」

 おしぼりって冷静に考えるとおもしろい言葉だ。連用形に接頭辞で構成されている。そのおしぼりが3回も出てきて、ちょっと情けないような場面が描写されている。ちょっと情けないんだけど、人生にはこういうシーンが起こりえるもんだよな、という説得力に溢れている。きっと、淡々とした書き方からまるで自分の身に起きたことのように読んでしまうのだろう。ハンカチでも起こりえる事象ではあるんだけど、でもこの歌は水分を含んでいるおしぼりだから面白いのだ。
 なべとさんのショートショートは起こりそうで起こらなさそうな日常の隙間を垣間見たような感じにぞくぞくした。もっとなべとさんのショートショートを読んでみたい。

自転車の荷物の場所を「チャリかご」とあなたは言って首都はチャリカゴ
 橋爪志保「恋の手先」

 自転車の鍵はチャリキー、自転車通勤・通学はチャリ通、自転車の荷物入れはチャリかご。普段なにげなく口にしているけど、冷静に考えるとなかなかに変な言葉だ。あなたの口から「チャリかご」という言葉が提示されたとき、それはまるで知らない言葉のように思われるのだ。知らない遠い国の、存在しない首都の名前のように。チャリかごという響きを首都に結びつける言語感覚が楽しい。そして、チャリカゴが首都になるには、あなたを慕う気持ちも必要なのだ。
 橋爪さんの日記は日付に匿名性が与えられていて、他人の日記を読むときの楽しさが増幅するようだった。わたしは特に12月の日記が好きだ。考えたことを残すこと、生きていることを思った。


ではでは、またお会いしましょう。岡田奈紀佐でした。

文フリ東京36でいただいたフリペの感想とか#4(mah)

文フリ2023 東京

文フリに行ってきたので、ぼちぼちフリーペーパーの感想をしたためている。今回は第四弾。文フリ会場ではいただいておらず、後からネットプリントで出力した、歌会ピオーネさんの「東京出張」フリーペーパーの感想を、妄想多めで書いていきたいと思う。

歌会ピオーネ「東京出張」フリーペーパー

七人の方の、7首から10首の連作。超勝手に読み込んでいきたいと思う。

相聞欠片 楔

チョコレートのくまがココアに溶けていく目線の先に降る春の雨

これどういうシチュエーションなんだろうと一瞬悩んだのだけれど、勝手にしっくりきたのは、喫茶店で無言で向かい合ってる恋人同士の二人だった。家ではくまなぞココアに溶かさないこと、目線の先に春の雨が見えている(窓の外がはっきり見えている)ことから、外だろうと思い、ココアを飲んでいるので喫茶店を連想した。

お互いピクリとも動かないほどピリピリしている重たい沈黙の中で、ココアに溶けていくチョコレートのくまは唯一動いている。その対比が、沈黙の重たさを淡々と示している。うお、全体におけるこの上の句すげぇな……。

で、この歌の結構肝だと思うのだけれど、この歌の主人公の目線って、くまにもないし、相手にもないし、相手を越して窓の更に外の雨にまで通り抜けてしまっている。沈黙の中、なんとなく白けていのだ。沈黙をすら冷めた目で見ている。

そう考えると、これって別れ話なのかなあと思う。少なくとも主人公はこの沈黙にうんざりしているし、もはや相手を見てすらいない、などといった描写から考えて。

「春」と限定しているから、まあいろんな出会いや新しい経験を通じて、昔の自分を、一緒にいた恋人を、脱ぎ捨てたいと思っているのかもしれない。

大切なのかもしれないのにね。すごい描写力の歌だと思った。

寿司 酒田現

春いろの服も茶髪も影となりそのふちだけがやや青くある

これ、懐かしい写真眺めてるんだろうなと思った。春いろの服も茶髪も影となり、というところから、逆光で撮られた写真なのかなと思う。きっと楽しいシーンだったのだろう。「影となり」という語からは、逆光で撮ったという意味の他に、写真を撮った日からの時間的な距離を少し感じる。なので、懐かしい写真なのかなと連想した。

さて、デジカメで撮った写真の、被写体の縁が青や薄い紫にうつる現象を、パープルフリンジと言うらしい。やはり逆光のときによく起こるということだ。なんでこの写真逆光で撮られたんだろう。と、考えたのだけれど簡単で、ハイチーズで撮った写真じゃないことの証左なのだとすぐに気づいた。ごく自然な何気ない楽しい写真なのだろう。思い出して思いを馳せることは、温かいことなはずなのに、とてつもなく寂しい。

 

震度2くらい スズキ皐月

準急じゃとまらない駅を忘れてく大学の友の下の名前も

これなんか共感しかなかった。通勤で使ってた赤い電車の各駅停車が停まる駅の名前を、わたしもとうに忘れてしまった。毎朝乗っていたのに。それで、快特が通る駅はなぜだか覚えていたりして。各停だけ忘れてしまうのはなぜなんだろう。

なんかこれ、ホント寂しい短歌だなと思う。線路の先にはその駅が確かにあるのに、大学の友だちにも下の名前は絶対にあるのに、思い出せない。知っていたんだから、あと少しで思い出せるはずなのに、もう絶対思い出せない。些細なことのようでいて。一度は受け入れ受け入れられ合えたはずの世界からの圧倒的孤絶。望んでいるのか、そうなってしまったのかは分からない。ちょっと昔の村上春樹の世界観と近いかもしれないと思った。うん。これよかった。

昼食を忘れる 武田ひか

口角からひかりあふれている人よ 真夏のこけらおとしはすぐそこ

これ面白かった。口角からひかりあふれるってどういうことなんだろうと思って。口角って普通ひかりじゃなくて泡を飛ばすのだけれど、その泡にすらひかりを見出しているのだろう。「ひかり」という表現から、ポジティヴな目線で相手を見ていることが分かる。きらきら眩しいんだろうな。

なんとなくなのだけれど、多分この二人は(二人かは分からないけれど)、主人公の方が年上なのだろう。というのは、「ひかりあふれている人よ」の「よ」で突き放す表現には、若干上からの距離を感じる気がするので。

主人公である先輩Aとひかりふれている後輩B。先輩Aは後輩Bが楽しそうに話すのを、少し距離をおいて、でも少し懐かしい気持ちを抱きながら眺めている。「懐かしい」、というのは、「真夏のこけらおとしはすぐそこ」という下の句から連想した。「すぐそこ」と分かっているということは、一度は通り過ぎた景色なのだろうなと。

そんなわけで、この歌は「そうだよね、そうそう、いろいろやりたいよね、いろいろ楽しみたいよね、そんな真夏はすぐにやってくるよ、かけがえのない時間をきっと過ごすことになるよ、楽しみだね」みたいな感じなのかと思った。まあ、妄想です。

個人的にはこの歌のこの眼差しの温かさはちょっと好きかもしれない。

藤の花のセオリー 大代祐一

藤の花のセオリーは垂れ下がることラクだとか好きだとかではなく

これホントそうだなぁと思っていて。

けど、人間に置き換えるとして、人間のセオリーってなんなのだろう。人間は生きるために何をしなければならないんだろう、何をすることが生きる条件なのだろう。群れを成して生きるとか、人を愛することとか。それとも、人間のセオリーそのものが「生きること」なのだろうか。そうだとすると、「人間は、生きれる通りに生きていくしかない、ラクだとか好きだとかではなく」とかなのだろうか。「人間ってのは、生まれちゃったら生きていくんだよ、ラクだとか好きだとかで選べるようなことじゃないんだよ、生きろ」というメッセージに見えて、なんかよかった(語彙力)。

これは、人生へのエールのような一首にも、人生での決定的な敗北にも見える。もう少し読み込みたい一首。

つわぶきの花 長谷川鱗

洞に住むきのこ人間 中学の模試に控えて勉強をする

これ山月記モチーフなのかな、というのが第一印象。

この方の作品を読むのは初めてなのだけれど、「きのこ人間」というのは自分を形容しているのか、誰か他人を形容しているのかどちらなんだろう。この連作中に「きのこ人間」が出てくる短歌は三首。さらに、連作の最後に「つづく」とあるので、ひょっとしたら前後関係があるのかなあ。

山月記モチーフだとすると、「きのこ人間」とはひょっとして、すでに世間から隔絶されているのだろうか。確かに他の二首も、若干世間から外れてる感はある。中学の模試ってなんだろ。定期テストとは別の何かなのだろうか。「模試」と言われると、大手の塾とかの全国テストみたいなのが想像できるけど、どうなんだろう。とにかく、模試に控えてめちゃくちゃ勉強している。「でももうあなたきのこ人間なのよ、模試なんて無いのよ?手遅れよ?」みたいな感じなのだろうか。

不思議な読後感の連作だった。ちゃんと意図を汲んで読めてなくてすみません。つづくそうなので、また読みたいです。

硬水の機運 村上航

食パンの焼かれる面にスプーンですくったバターを塗る人の朝

これはなんだろ、不思議な歌。バターをスプーンですくうのも、それを淡々と塗るのも、少しずつ現実と離れている。バターはナイフですくうものだし、まだ焼いていない食パンに塗るのも硬さ的に無理なのだ(マーガリンならできる)。なんか、少しずつ変な人を描いているってことなのかなあ。そういう少しずれた人の朝って、なにもかもが少しずつずれているんだろうな。

ああ、でもこれも描写の丁寧さと適切さとズレ感が、村上春樹っぽさがあるな。大量のサラダも一緒に食べていてほしい、朝。

 

では

わたくしからは以上です。(mah)

シュガーソングス step.3 2023年6月号の公開

シュガーソングス step.3 2023年6月号のネットプリント配信

本日から、シュガーソングス step.3 2023年6月号をネットプリントで配信しています。ぜひ出力してお楽しみください。

セブンイレブン:65533956

6/22まで

ファミマ・ローソン:FQ8YGTY69R

6/23 12時ごろまで

シュガーソングス step.2 2023年5月号の公開

さて、今回はうみべの喫茶店ネットプリントのバックナンバー(step.2 2023年5月号)を公開します。

尚、5月にネットプリントで配信したデータもダウンロード可能ですので、そばに置いていただける方は、下のリンクからダウンロードしてください。ありがとうございます!

こちらから→シュガーソングス202305.pdf - Google ドライブ

 

 

 

文フリ東京36でいただいたフリペの感想とか#3(mah)

文フリ東京36

文フリに行ってきたので、ぼちぼちフリーペーパーの感想をしたためている。今回は第三弾。

 

いちごつみ30 2023.1.3-14 S 志賀玲太 H 橋爪志保

「いちごつみ」とは、交互に短歌を詠んでいくというもの。その際に、「前の歌(もう一人の人の歌)」から「一語(いちご)」を選んで使うというルールがある。

本作は、「いちごつみ」であることから、まとまった連作にしようとして連作を作ったわけじゃないはずなのに、全編を通しての一体感というかなんだろう、なんか空気感があり、透き通ってて素敵だった。

H 雑踏に背を見送って表情を戻せば笑っていたのに気づく

この歌は初見で好きになった。よく読んでいって「気づく」という表現にやられてしまった。

場面は駅の改札だろうか。あるいは改札から入って、それぞれ乗る電車が異なり、ホームへの階段前での別れたシーンなのかもしれない。とにかく、雑踏の中に消えていくのを眺めている。

このときに、歌は主人公のどんな気持ちを表しているのだろうか。それの答え合わせが「気づく」という最後の語だ。

「気づく」というこの言葉は、この歌の最後に置かれてみると、「意外性」と「距離感」を歌に与える語として機能している。これによってこの歌は「主人公が恋に自覚的になる瞬間」を表しているのだと思った。

というのは、もともとの恋人や好きな人だったら、雑踏に見送った後、さんざん笑ってた表情を戻したときに素の顔になるのはいつもどおりの当たり前のことなのだ。

なのに今回は「気づく」という過程がある。主人公は無意識にずーーーーーーっと笑って話をしていたのだ。別れた後でそのことに気づき、主人公はきっと自分の気持ちに自覚的になる。恋人になっていくのかもしれない。もしかしたらものすげーーーーーー仲の良い飲み友だちになるのかもしれない。めちゃくちゃよくないですか、この場面!

未来のことはこの歌からは分からないけれど、わたしとしては友だちではなく、「恋が始まったっちゃった」というシーンを採用したい。少女漫画みたいでかなり熱い!頑張れ主人公!

にしても、この「気づく」という語、仮に自分でこの歌作っていたとしてこの語の必然性に気づいて歌のしかも最後に入れれるかと考えると、結構難しいよなあと思った。

S 消えてった本音も空に浮かぶようにスマイル座とかわたしが探すよ

下の句だけでもファンを獲得できるであろう強い歌だと思った。というか、わたし自身が、下の句だけでこの歌を好きになった。

なのでまず下の句だけで見ていく。

<スマイル座とかわたしが探すよ>

「スマイル座」とか「わたし【が】探すよ」
スマイル座なんて星座は宇宙にはまだ存在しない。そうした現存しない宇宙空間という途方もない暗闇の中で、「スマイル」座をわたし「が」探すと言うのだ。

何の、広大な暗闇の中に、誰のスマイルを、わたしが探そうとしているのだろうか。

素直に考えてみる。わたし「が」と主格の格助詞「が」を採用していることから、逆にこの場所に「わたし」じゃない誰かが存在することが分かる。探す「よ」と終助詞の「よ」を用いることによって、探すよとそばいる「あなたに」言い聞かせていることが、ここでも分かる。

つまり下の句は、「宇宙の星々の中に「スマイル座」をわたし「が」探すよ」と相手に言い聞かせている場面を表していると思われる。

では上の句を見る。

<消えてった本音も空に浮かぶように>

この上の句では、主語が明示されていない。だから普通に読めば「わたし」が主語となり、「言えずに消えてったわたしの言葉たち、空に浮かぶように祈ってる」と、自己完結する。

しかし気づく。「あれ?空に浮かべたものってもしかしたらやがて星になるんじゃない?」「え、もしかして星ってやがてスマイル座としてわたしが探すんじゃない?」「ってことは上の句って、消えてった「あなた」の本音が、空に浮かぶようにと祈ってるんじゃない?」と。

そういうわけで、歌全体を見てみる。

<消えてった本音も空に浮かぶようスマイル座とかわたしが探すよ>

全体では、こんな意味を読み取ることができる。

「あなたが言えずに消えていった本音たちも空に浮かぶよう祈っている。浮かんだ本音はやがて空の中で星となる。その星々の中から、誰にもまだ見せていないあなたのスマイルをわたしが探してみせるよ」

おそらくこれは恋愛関係というよりは友情の話だと思う。恋愛がまざるとこれめちゃくちゃめんどくさくなるから(笑)

この歌好きだなあ。「スマイル座とかわたしが探すよ」とかなんかもう「青春」って感じでたまらない。

2首に通ずるもの

それぞれ作者が違うので「通ずる」ものではないのかもしれないけれど、「青春やばい」と思った。大人になってしまうと、こういうことってなかなか起こらない。

しかし思うのだけれど、青春をいつまで歌の題材にしてよいのだろう? なんか人さまのは歌についてはなんとも思わないし大好きなのですが、わたしは自分の中で「そろそろ高校生を主人公にしてる場合じゃないぞ」と思われそうということで、主人公の年齢を少し上げようとしている。それとも青春って好きに戻っていいものです? 誰か教えてください。青春大好きなんです。

 

では

文フリでいただいたフリペ感想シリーズはレスカ編は、これでおしまい(冊子や本になっているものはあとから読んでいきます)

はい、フリペ編、おしまいおしまい(mah)

文フリ東京36でいただいたフリペの感想とか#2(mah)

文フリ東京36

文フリに行ってきたので、ぼちぼちフリーペーパーの感想をしたためている。今回は第二弾。

 

バッテラ46号 岡本真帆 谷じゃこ

a が the へと my へと変わりゆくように紙袋持つ帰路は夕暮れ(岡本真帆)

これはめちゃくちゃ好きになった、一瞬で。

a 不特定多数のあるもののうちの一つ
the 特定のもの
my わたしのもの

この変化は誰しもが、何らかのものやこと、あるいは人に対して、感じてきた心の動きだ。だから、この歌を読む誰もが、実体験としてこの心の変化を思い起こすことができる。

この歌においては、変わってゆくそのものは、一体何なんだろう。
その「何か」がa→the→myと変化してゆく小さな愛おしさ。紙袋を持つ帰路、夕暮れに思いを馳せながら、「その一日」の連続、「日常」そのものがa→hte→myに変わってゆくようなしんみりとした実感。そして「人生」という途方もなく、過去から未来へと連綿と続いていくが a→the→my へと変わってゆく温かい確信。そこにはたくさんの人への愛情もあるはずで。

周りの大切な人やもの、生きてゆくことへの柔らかな眼差しがすさまじい一首だと思った。

土曜日の朝のねむたいうすぐもり二度寝はせずにもう一度寝る(谷じゃこ)

これもめちゃくちゃ共感できる歌だった。

おそらく土曜日に休みの仕事をしているか、学校に在籍している。だから、その土曜日=休日の朝なのにいつもと同じ時間に目覚めてしまう。それは目覚ましを掛けていなくても、自動化されてる現象だ。しかし、目覚めてみれば窓の外にはうすぐもりのぱっとしない一日が広がり、自分の意識もうすぐもりのそらのようにぼんやりとしている。こんな日は「二度寝」なんて最初の眠りの調整のための生半可な眠りではなく、「もう一度寝る」と決意を表明するぐらい本気で寝る、寝たい、寝よう。なんなら昼ごはんも食べなくていい、寝よう。

こうした決意ある眠りは、経験がある人も沢山いるのではないだろうか。そしてそういう光景を歌にすることでこの歌は、大きな共感を生むものであるとともに、大袈裟に言えばある種の許しさえも含んでいる。

 

お披露目フリペ 短歌同人しえすた

果てる春 鈴木智

何十年ぶりに聞いたか鼻歌を はざくら、宣告は父に降る

なにこのすごい歌。と思ったら歌集を出してる人だった。

1ヶ月くらい掛けて病気の検査をきっとたくさん受けていた父さんが、ある種「宣告」の予感を感じている。それで気持ちを落ち着かせるためか、無意識で鼻歌を歌っていて、子どもである主人公は何十年かぶりにそれを聞いている。そしてたまらない気持ちになる。「宣告は父の降る」と「父」と限定しているので、もしかしたら、主人公は父より先に医師から宣告を受けているのかもしれない。それだからこそ、少しの間父さんに秘密を持っていた罪悪感と、気を紛らわすために父さんが歌う鼻歌が、悲しくて寂しい。

「はざくら」は、花がら花びらへと別れて散りだしてから若葉が芽吹き終えるまでの期間を指す限定的な言葉だ。葉桜が見えるのは、ほんの一瞬だけなのだ。

だからおそらくこの「はざくら」は、「桜の花=人生」がいろいろな人と分け合って落ちてしまったあとに残るほんの僅かな期間を指しているのだろう。

そしていよいよ、父に余命宣告がなされる。おそらく空から「降る」ように残酷なまでに一瞬で。そして短い「はざくら」の期間を言い渡される。

父さんはどんな気持ちになったろう。もう鼻歌はしばらく歌えないかもしれない。付き添っている主人公もおそらくしばらくは気楽に笑えないかもしれない。

でも生きていればそんな日もくる。人生は、いつも温かいばかりじゃない。神さまは、いつも優しいだけじゃない。

西へ 千々岩清

岡山に誰か待つらむ靴紐を結び直して改札口へ

直訳という「か」と「らむ」を現代語に直すと二つ意味がとれて、

「岡山に誰が待っているだろう 靴紐を結び直して改札口へ」
「岡山に誰が待っているというのだろう(反語、いや誰も待っていない) 靴ひもを結び直して改札口へ」

つまり、「か」という助詞が疑問か反語を示し、(助)動詞は「か(疑問)にせよ「か(反語)」にせよ連体形で結ばれるので、この推量の助動詞「らむ」は、文章からは区別できない。


これはわたしは「反語」を採用したい。

この連作では、主人公は新横浜からのぞみにのり、岡山までやってきた。ふるさとはシウマイになって着いてくるわ、仕事人は背もたれ倒すほど疲れてるわ、(大阪とか神戸?)家族連れを吐き出して、さらに西へと列車は進んでいく。これらの情景描写には、所在のなさを感じる。

で、この歌の「か」を疑問としてとらえるのならば、「待っている」人が知人であれ将来知り合う誰かであれ、ポジティブに「誰が待ってんだろうなー、色んな人と出会って行きたいなー」と決意を新たに靴紐を結び直して新幹線を降りて改札へ向かう。

この歌の「か」を反語として捉えると」、それが知人であれ将来知り合う誰かであれ、「誰が(わたしなんか)待ってくれるのかだろうか、いや、誰も待ってなんかいない」という所在ない、孤独、寂しさ、心細さなどが際立つことになる。大学入学なのか、就職のためなのか、分からないけれど、誰も知り合いのいない土地で、「きっと誰にも出会えない(ずっと一人に違いない)」、と感じさせる、いじけた感じがよい。でもこの場所で生きていくという決意をするために、靴紐を結び直して改札へ向かう。

 

これ、どちらを選ぶかを読者に委ねてるのか。って今気づいた。わたしバカだーーーー。

そして結構共感できる人が多いような一首だった。

期待しない  深山静

かわいいの基準に性差あることを前提としてみんなかわいい

そうなの!性差があるのは分かっていても、それでも思うのだけれど、みんなかわいいの!とこの歌に乗っかりたい。

 

(前提としてわたしは女性です。ですのでこういうのを投稿できます。これ男性だったらそうはいかないでしょ。その男女の扱いの非対称性が、本当はわたしは嫌いです。それでも尚かわいいものを愛でたいと思ってしまう)

 

まず女子高生。
あなたたちは存在が可愛いので、写真の画像なんかしなくていいです、むちむちなのが生命力を表していて最高なので、ダイエットなんかしなくていいです。勉強はしなさい。

 

次に大学1年生
男女ともに、あなたたちはいわば雛鳥として可愛いのでそれでいいの。背伸びしなくていいの。都会にはいつかちゃんと慣れるから、とりあえずユニクロでもいいの。クラスやゼミやサークルでイケてるグループに入れなくてもいいの。いつか語り合える友だちには会えるから、焦らなくていいの。勉強はしなさい。

そして大学2年生
自由な様が、それを信じている確信が、かわいいのかもしれないね。受験から解放され一年、就活はまだこれからなので、一番自由なモラトリアムの一年って言えるかもしれないね。でもサークルの人間関係や叶わない恋に振り回され、泣きつかれた人もいるかもしれないね。でもそうして人は大人になっていくのかもしれないね。跳躍の一年、傷ついたり傷つけたり喜んだり喜ばせたりして生きていくのかもしれないね。勉強はしなさい。

さらに大学3,4年生
就活なんかで社会への大きな壁を前に途方に暮れてるあなたたちはかわいいよ。就活、なかなかうまくいかないよね。第一志望、一次面接で落ちたよね。そんな中なんか知らんけど恋人に振られたの意味わかんないよね。さらによくわかんないことをよくわかんないままで卒論にまとめなきゃならないのもしんどいよね。勉強はしなさいとさんざ言ったでしょう。

 

その他の全人類
(わたしはyoutuberのおのだという太った30代のとくにハンサムでもないおじさんが、最近可愛くてたまりません)

みんなみんな、生きてるだけでかわいいし。どんな自分でもかわいいし。だからそのままでもいいし、好きな服を着ればいいし、好きな髪型にすればいいし、自由でいていいし。きっと願っていれば、好きなことができるし、好きな場所に行けるし、好きな人に出会えるんだよ。人生が少しだけ尊く見えるんだよ。

でも勉強だけはしなさい、大人になっても、おじいさんおばあさんになっても!

では

今回はここまで。

わたくしからは以上です。(mah)

文フリ東京36でいただいたフリペの感想とか#1(mah)

文フリ東京36

文フリに初めて出かけてきた。信じられない熱量、それは、精神的にも物理的にも。目的を持ってやってこないと、人波に飲まれて何も手に入れずに終わってしまう。わたしは相棒のなぎささんの金魚のフンをやって、何名かの歌人、短歌をやる人に、軽く挨拶をしたり「シュガーソングス」を渡したり名刺を押し付けたりして、楽しい時間を過ごした。

そうした中で、何枚か他の短歌の人たちの発行したフリーペーパーを頂いた。今日から少し時間をかけて、それらの感想を書いていみようかと思う。

 

初夏に読みたい自選短歌10首 真島朱火

坂道を二人で漕いで君も明日筋肉痛になっちゃえばいい

二人で坂道を自転車で登っていく。「君」はまだ恋人ではない。もしかしたら「君」には決まった相手がいるのかもしれない。そんなもどかしさの中で、「君」と「二人で」「筋肉痛」になることが、同じ時間に、確かに二人でいたんだということの証となる。「なっちゃえ」と言っていることから、やはり「君」には決まった人がいるかして、もう何をしても自分と恋人になってはもらえないくらいの距離感が示されているのかな、とにかく切ない想いを感じる。

それはわたしたちも似たような記憶がみんなあるはずで、そうした甘酸っぱい思い出を思い起こさせてくれる一首だった。

 

マンション 辻聡之

木の枝や泥や唾液で家を作るいきものたちを追い立ててひとは

マンションを探している主人公が、探しながらそんなことを思っている。普段は鳥やらリスやら小動物のことなんか思い出すこともないけれど、いざ家を探す段になって、改めて「家」というものを考えたときに、人間が、先に家を作ってきたいきものたちを追い出し、後から自分たちの家を作っていくことの身勝手さを思う。それは家に限らず、あらゆる側面でそうなのだと思う。その残酷性といやそれしょうがないでしょという諦念と人間って自分勝手だなあといういくばくかの感傷が表されていて、なんだか我に帰らされる一首だった。

 

パスカさんと星野珠青さんのフリペ 

僕の血液型だけ足りている

パスカさんの自由律俳句。
普段、自由律俳句どころか普通の俳句にも触れていないので、どの作品も新鮮で面白かった。

その中でとくに目を引いたのが、この句だった。

「僕」は血液型がA型なのだろう。A型というのは日本では圧倒的に最多人数を誇る。だから献血現場でも、A型は比較的血液が足りている。別にそれが悪いわけではない。しかし、「足りている」と言われると、なんだか自分の価値が安く感じてしまって、量産型と軽んじられるようで。そのなんとなくいじけた感じがA型であるわたしも共感できて、面白かった。

ちなみに、インド人はB型が一番多いそうです。

 

よみがえる童心だけを信じたい夕暮れのツリーハウスに登る

星野珠青さんの短歌。

初見「登っちまったんかーい!」と思った。

普段は仕事に生活にと忙しく、文字通り心を失くしてしまっているような日々だけれど、ふと立ち寄った公園でツリーハウスを見つけて、ああ懐かしいな子どもの頃よく登ったな。あー、自分の中の童心がざわつく。この童心こそがこの願いこそが、世界に慣れて世の中に紛れて自分で自分を追い詰めていくような大人になっていく過程の前に抱いていた、本物の自分の本当に心からの渇望だったのではないだろうか。

大人でも、スリーハウスに登った人だけが見える景色が、感じる気持ちが、たどり着ける境地が、きっとあるんだろうなと思う。

 

では

今回はここまでです。好き勝手妄想解読してしまい、怒っていたらすみません。まだこのシリーズは少し続きますので、お付き合いいただければと思います。(mah)

シュガーソングス4月号

うみべの喫茶店ネットプリントのバックナンバー(23年4月号)を公開します。

また、現在、5月号をネットプリントで配布しているので、そちらも出力してどうぞご覧ください。

 

なお、4月にネットプリントで配信したデータもダウンロード可能ですので、そばに置いていただける方は、下のリンクからダウンロードしてください。ありがとうございます!

こちらから→ シュガーソングス23年4月号